パソコン歴  
今度こそバイオで「ワード」を


 パソコンを使い初めてちょうど10年になる。今ではちょっとした文章もキーボードに向かわないと書けなくなってしまった。朝、研究室へ行くと、まずパソコンのスウィッチを入れる、帰宅すると、また、まず仕事部屋のパソコンのスウィッチを入れるというのが日課となっている。

 昭和63年以来、この10年間に買ったパソコンは4台。最初に買ったのは、「エプソンPC286V」。次が、平成5年に買った「マッキントッシュLC520」。その次が、平成6年に買ったノートパソコンの「エプソンPC486NOTE AU」。一番新しいのが、平成8年の「パワーマック7200」。現在は、主として「パワーマック7200」を使いながら、必要に応じて「エプソンPC486NOTE AU」を使っている。

 パソコンを普通に使っている人なら、この4台の名前を見て、相当大きく(48度くらいか?)首を傾げるにちがいない。なぜ10年前に、あるいは4年前に「98(キュウーハチ)」(NECの9801)を買わなかったのか。なぜ2年前にウィンドウズマシンを買わなかったのか。

 そうした疑問は当然である。いずれも世間の常識からすれば、圧倒的にマイナーな機械である。マッキントッシュ(以下「マック」)は一部に根強い人気があるとは言え、世界のパソコン市場においてはは5%程度のシェアしかない。エプソンの互換機に至っては、もう生産が打ち切られてしまって、周辺機器も手に入らない状態である。

 では、なぜそんなパソコンばかり買っているのか。

 奇を衒ったわけではない。パソコンを買う前にはパソコン雑誌を山のように買い込んで、どれにすべきか深く研究し、熟慮に熟慮を重ねて、これらに決定したのである。少なくとも、買った当時は最善の選択をしたつもりである。ポイントは、コストパフォーマンス。つまり、最も値段が安く、しかも、その値段の割に高機能であるという観点から選んだのである。

 10年前、日本においては98が絶対的な標準機で、ほとんど独占状態だった。それだけにNECは強気の商売をしていて、値段も安くはなかった。そんな中で、エプソンはその98の互換機を出したのである。互換機というのは、98とは異なる機械であるが、98と同じように使用できるというものである。機械の中がどんなふうであっても、98と同じことができ、そのデータが共有できれるのであれば、こちらとしては何も問題はない。その上、値段は98より安く、機能はより高度なのである。だとすれば、エプソンの互換機にしない手はないではないか。

 5年前当時、ウィンドウズは「3・1」というバージョンで、その操作は面倒で、画面も野暮ったいものであった。一方、マックは今から10年前に既に今の形がほとんど出来上がっていて、現行のウィンドウズ95もこのマックを全面的に模して作られたものである。そんなところから、当時のウィンドウズ3・1は、しばしば「貧乏人のためのマック」と称されていた。それほど魅力的なマックであったが、少々高額な点が問題であった。ところが、5年前頃からマックは価格を下げて、日本のシェア拡大をめざし始めたのである。ウィンドウズ以上のことが出来て、しかも、CDドライブまで付いて(当時標準でCDドライブが付いているのは珍しかった)、98の一番安いのとほぼ同じ価格。これを買わない手はないではないか。

 このように説明すると、なぜこれらのパソコンを買ったか、理解していただけると思う。そして、「わが選択に誤りはなかった」と主張しても、それは、あながち強弁には聞こえないと思う(今、自分でこの文章を書いていて、実に正しい行動だったと自ら思いこんでしまうほどである)。

 しかし、現在の状況はご存じのとおりである。

 恐ろしいことに(「笑ってしまうことに」と言うべきか)、ハードウェアだけではなく、使っているソフトウェアも超マイナーなものばかりである。

 ワープロソフトは、「一太郎」も「ワード」も使ったことはない。私が使っているのは「オーガイ」というワープロソフトである。これは、ウィンドウズを使っている人はあまり知らないだろうが、マックを使っている人もほとんど知らないソフトである。実は、マックにおいてもワープロソフトは「一太郎」や「ワード」が主流である。そうじゃない人は、たいてい「ワークス」を使っている。自慢ではないが、周囲で「オーガイ」を使っている人を見たことはない。

 これを使っているのには、もちろん理由がある。これは実に使いやすいソフトなのである。アウトラインプロセッサの機能はあるし、縦書きは自然にできるし、原稿用紙モードにも一瞬で変更できるし、表作成も簡単、といった具合に機能は十分で、しかも、軽い。発売された当時、種々の雑誌で絶賛されていたが、それも当然と思われるすぐれたソフトなのである。私は過去三回のバージョンアップにもすべて付き合って、現在に至っている。

 しかし、それを誰も使っていない。

 不思議である。なぜ私の使うパソコンは常にマイナーなのか。

 あるいは中世文学を専攻していることに関係があるのかとも考えたことがある。つまり、「内なる義経」がおり、無意識のうちに敗者を選んでしまっているのかと思ったのである。「判官びいき」である。しかし、むしろ、私が疫病神だと考えるべきなのかもしれない。本当なら皆が使うようになるはずの機械やソフトが、私が選んだことにより、あまり使われなくなってしまうのかもしれない。

 今度パソコンを買い換えるときは、ソニーのバイオにしようと思う。そして、ワープロソフトは絶対マイクロソフトの「ワード」にしたい。今(平成10年秋)の絶対的な主流、完璧な「勝ち組」のこの組み合わせを、今度は買ってやるのだ。

 貯金をしなければ。


(『皇學館大學国文学会報』(平成11年3月発行)


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